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安土山そう見寺再建縁起

其之一 本堂解読と再建指針
其之二 本堂再建の術
■ 其之三 本堂の空間

其之一 本堂解読と再建指針

そう見寺境内を構成する建築要素の大半は、甲賀を中心とするさまざまな寺院から移築されたものである。それは現存する三重塔(長寿寺からの移築)や仁王門をはじめ、本堂も同様である。このことは本堂再建に際して考慮すべき重要な特徴である。

本堂跡の礎石配置から、本堂は典型的な中世密教本堂であることがわかる。しかし、この本堂は移築時には
二階建であったという(ルイス・フロイス「日本史」)。「一重裳階付き」や「二重」でなく、二階建ての中世密教本堂などは類例がないから、この二階部分(以下「閣」)は増築の可能性が高い。

そう見寺の建築はその大半が移築であることを考慮すれば、この「
」も移築建築であり、それを密教五間堂の上に乗せて二階建築化したことが考えられる。

そこで「閣」であるが、「
そう見寺文書」によると、その寸法は「二間四面」とある。これは同文書にあるそう見寺三重塔の寸法記述と同じである。よって三重塔初層と同等規模の建築を移築し本堂を二階建築化したことになる。

同文書の「閣」に関する記述をさらに見ると「組物出組、二軒垂木」とある。この造形と前述の平面寸法は、
多宝塔初層に典型的なものである(三重塔の初層組物は三手先が圧倒的に多い)。ということは、「」は多宝塔初層であることが予想される。ただ塔建築の初層だけを自立建築へと改築できるのかが問題である。


(図1)不退寺塔婆

しかし、実例がある。たとえば
安楽寺塔婆は三重塔初層に宝形屋根をかけた例であり、不退寺塔婆(図1)は多宝塔上層を失ったのち残った初層に宝形屋根をかけた例である。これらはともに本来は中世の塔建築である。よって「閣」は多宝塔上層を取り払い、初層だけ残して屋根をかけ直した建築だと思われる。

ならば、そう見寺本堂は下層を密教本堂、上層を多宝塔初層とする、二つの異質な造形の建築が上下連結されてできる
異形の建築となる。このような例はほとんど見られない。


(図2)富士山本宮浅間大社本殿の桁行立面図と梁行立面図

しかし、静岡県の富士山本宮浅間大社本殿(図2)はそんな建築である。すなわち、下層は五間×四間、寄棟屋根の仏堂に近い建築であり、その上層は純粋な三間社流造本殿である。個々にはきわめて伝統的・典型的な二つの建築が垂直に連結された結果、他に類例のない建築となっている。

この富士山本宮浅間大社本殿は
徳川家康建立である(慶長九年(1604)(社記))。「信長公記」には、信長公がそう見寺境内で幸若舞と能を舞わせ家康をもてなしたとある(天正十年(1582))。家康は当然そう見寺本堂も実見していたであろう。そしてこの異形の本堂を見て先の神社本殿建立の着想を得たのではないだろうか。すなわち唯一と見える富士山本宮浅間大社本殿は、実はそう見寺本堂をモデルにして建立された建築である可能性があるのだ。

異質な造形を垂直に重ねて楼閣にした建築。ここで思い当たるのが
安土城である。安土城は不定形平面から矩形、八角円堂、頂部の正方形と、その形状を劇的に変えながら垂直に積層した建築である。これはそう見寺本堂の異質造形の積層に通じる。

本堂の「閣」には「
盆山」という石を自身のかわりに御神体にして信長公が祀らせたという。また安土城一階にも「盆山の間」があったという。自身のかわりとなる神体を祀る空間が両建築に存在するわけである。このことからも両者の相関は深いといわざるをえない。そう見寺本堂と安土城天主のいずれが先に建立されたかは明言できないが、その普請においても相互影響があったに違いない。本堂が先なら安土城建立のための建設実験として。天主が先なら同じ盆山を祀る場として城を模して本堂を作らせたものとして。

 以上から本堂再建にあたっては、以下の点に留意する。

イ、
本堂は下層を密教本堂、上層を多宝塔とする二階建建築である。

ロ、
そう見寺本堂を参照して家康は富士山本宮浅間大社本殿を建立したものと仮定する。よって現存する富士山本宮浅間大社本殿を参照しながら再建案を構築する。

ハ、
上下でその造形が劇的に変化する多層階建築例として安土城がある。「盆山」を祀る空間が両者にあるだけでなく、上述のように両者は建築においても相互影響(参照関係)があったものと思われる。よって再建考察にあたっては安土城復元案も適宜参照する。

其之二 本堂再建の術

「本堂尺」の設定

イ、「そう見寺文書」による本堂寸法は梁行六間六寸、桁行六間一尺である。一方本堂跡の礎石はその実測結果から、梁行12017mm、桁行12156mmである。これは通例の一尺(≒303mm)を単位とした場合にはあてはまらない。

ロ、そこで「本堂尺」があるものと仮定し、それを算出する。
梁行:12017mm÷(六間六寸=36.6尺)=328.333mm
桁行:12165mm÷(六間一尺=37.0尺)=328.783mm
となり、
「本堂尺」≒328.5mmと措定できる。

ハ、「本堂尺」を採用して「閣」の寸法を割り出すと
梁行=桁行:328.5mm×(二間=12尺)=3942mmとなる。これを「閣」の寸法とする。三重塔の寸法は二間3880mmであり62mmの差異があるが、3850〜3950mmの範囲の多宝塔は幾つも事例があり、多宝塔寸法としては妥当と思われる。

密教五間本堂の改造=下層建築の構築(図3上)



(図3)下層建築と上層建築の構築

イ、上記寸法に合致する密教五間本堂を用意する。なお礎石配置から外陣は奥行き二間、入側隅柱のないものとする。また「そう見寺文書」から組物出組、二間繋垂木とする。

ロ、内外陣境の格子戸をすべてとりはらい、密教本堂典型である外陣・内陣前後分節を廃する。内陣梁間を側柱梁間より広くとり内陣を自立した求心的領域として再編する。

ハ、内陣の改造は上層多宝塔との重合へ向けたものである。すなわち、内陣矩形上方に六角に梁を渡すとその梁上に二間四面の多宝塔がぴたりとおさまる。

多宝塔の改造=「閣」の構築(図3下)

イ、多宝塔上層を取り払う。初層は組物(出組)以下は柱をはじめすべての材を保持する。なお多宝塔は四天柱形式のものを採用する(閼伽井坊多宝塔 室町時代など)(図4)



(図4)閼伽井坊多宝塔の四天柱式平面(左)と、その外観

ロ、厨子を四天柱内中央間から撤去し、その後方一間四方を改造して厨子とする。また四天柱に囲まれた中央一間の床を取り外し吹抜けが形成できるようにする。このように四天柱のある塔を改造して厨子を後方に設置する例として安楽寺塔婆(図5)(平成修理前)がある

ハ、出組上部に二軒扇垂木(「そう見寺文書」による)をかけ寄棟屋根を作る。


(図5)安楽寺塔婆平面図(平成修理前)

下層と「閣」の接合(図6)(図7)


(図6)下層建築と上層建築の接合

イ、下層密教本堂は二軒繋垂木以下、組物、柱、紅梁など材はすべて保持する。

ロ、「閣」(多宝塔)の十六本の柱はすべて保持する。

ハ、下層小屋裏の架構は使えるものは保持しつつ、上層柱を支えるための梁配置へと改変する。下層小屋裏の巨大な梁に十六本の柱をたてて、「閣」の十六本の柱下部につぐ。

ニ、全体としては多宝塔と密教本堂の造形特質を保持して上下重合させる。それゆえ下層屋根の立ちあがりなどは基本的にもとの密教本堂の立ち上がりを踏襲する。しかし「閣」位置が下層中央部から後退しているため、隅木方向と跳ね木方向は一致しない。変則的な屋根の掛け方が必要となる。

ホ、「閣」と下層が元来別の建築であることのサインとして、「閣」は上層を離れて宙に浮かぶように重合させることが望ましい。そのため浅間大社本殿にあるように上下の接合部(浅間大社は柱をついでいるわけではない)に挿肘木腰組による縁をまわす。これは長大な柱を固める役割も担う。

ヘ、また、下層内陣から「閣」の四天柱間に向けて空間が貫通するよう下層内陣中央部には天井を張らず吹抜けを形成する。この空間は安土城復元案(内藤昌案)の吹抜けを参照している。

中二階の出現(図7)(図8)



(図7)本堂案の断面構成


(図8)中二階の平面構成と16本の柱

イ、下層の密教本堂ボリュームを保持すると、下層上層間に大きな小屋裏が残る。

ロ、小屋裏空間自体はどの仏堂にもあるが、通常は天井が張られて隠蔽される。ここには屋根の荷重を受ける巨大な梁や束柱、跳ね木などの架構が縦横に疾駆するが、この架構は「閣」を支えるための配列へと改造され、同時に「閣」の柱につぐための十六本の柱がたつ。

ハ、最後にこの架構と林立する柱の合間をぬって、「閣」へと至る階段および通路をこの空間に仕込まなければならない。その結果、隠蔽空間は切り開かれ、この空間は「閣」と下層をつなぐ中二階となる

細部造形の調整

イ、本堂を禅宗寺院本堂的にするため、下層正面に花頭窓を設置する。また「閣」の化粧垂木も扇垂木とする(純禅宗様の多宝塔は東観音寺のものが著名で各重とも扇垂木としている)。

ロ、移築前に檜皮葺/葺屋根であったもの(おそらく下層建築、上層建築とも移築前は檜皮葺/葺だったと思われる)は瓦葺屋根とする。その際の瓦は信長が安土城建設のために焼かせた瓦とする(本堂付近伽藍からも出土例あり)(図9左)

ハ、「閣」の釘隠しには六葉座を使用する(本堂跡周辺から出土)(図9右)



(図9)本堂付近出土の軒瓦(左)と六葉座(右)

の術